「真理」に生きる我を目指せよ 
 知識があふれ 「思い」のまれて日々生きるゆえに
    心の安定を欠き 人との出会いが深まらないのである
縁が生かせぬ我ゆえに 「心」不安に襲われる
 人との出会いを大切にされよ
 「真理」に出会いを生かす答えがある
 「真理」に生きるほど 恐れ おびえる心は消えてゆく
神の教えを学び 「祈願」重ねて 我が心の動きを安定させる
 自然と 人との出会いが生きてきて 今なすべきことに思いが向かう
 「心」流れて 奇跡に救われてゆくのである

 

「真理」に生きる我を目指せよ 
 知識があふれ
 「思い」のまれて日々生きるゆえに
    心の安定を欠き
      人との出会いが
        深まらないのである
縁が生かせぬ我ゆえに
    「心」不安に襲われる
 人との出会いを大切にされよ
 「真理」に出会いを生かす答えがある
 「真理」に生きるほど
    恐れ おびえる心は消えてゆく
神の教えを学び 「祈願」重ねて
    我が心の動きを安定させる
 自然と 人との出会いが生きてきて
    今なすべきことに思いが向かう
 「心」流れて
    奇跡に救われてゆくのである

 

目には見えない心の汚れ

これは「清浄」という儀式のご神示です。当教会には、七五三、成人式、長寿祝いなど、名前だけで即イメージできる儀式も数ありますが、清浄の儀は当教会だけにある、いわゆるオリジナルのもの。つらい、苦しい、暴れて抑えられないココロを、収めてほしいと願うひととき。元の清いココロに戻すためのひとときなのです。神に何を願い、頼むかは、人それぞれに異なりますが、心を守る神様なれば、いの一番に我がココロの安泰を、どうか願ってほしいのです。

汚い話でごめんなさい。昨夜誰かがこぼしたみそ汁、朝になってもそのまんま。虫が喜ぶような食卓だったらどうでしょう? 風呂場の中はカビだらけ、1週間も同じ風呂水…。調子に乗ってもう一つだけ。ドアを閉めても悪臭漂うトイレが我が家だったなら…、誰もが困り、掃除ぐらいするでしょう。
一方、目には見えないどころか、臭いもしない、心の汚れはどうでしょう。鬼のココロも、悪魔のココロも、腹の中へとしまっておきさえするならば、誰に迷惑を掛けることもない。
では、ココロの汚れを清める理由はどこにあるのか? 神様からの問い掛けが、このご神示の意味するものです。清浄の儀。

 

奇跡と守護を得る心とは…

かつてに返れば、私たちの願い事、一つ一つがかなうようにと、代わって神に頼まれていた。それが、直使のお人柄であるとともに、使者の仕事でありました。こうして生じた当時の奇跡、守護の数々。これらが永劫続くようにと願ったものが、「道を守りて、光(みち)が通る」希望の光(みち)。守れば通る宝であるのは、確かな事実でありますが、「良い人を目指しましょう」――このような道徳心とは異なるところに根があります。これが、希望の光を通すコツなのです。

努力だけで抑え込んだ心のよどみは、どうなるでしょうか? 外に出たらキレる人。内にこもれば社会に出ていく自信を失います。これが、努力だけで抑えた結果。いわゆる心の爆発です。
だから、神に心を預ける祈願をもって、ひととき心を開放し、預けきってほしいのです。
加えて一つ。相手の立場に成り代わるなど、物の見方を変えてみるのも大切です。これが神の教えが存在する意味。
誰にも生ずるココロの動きでありますが、怒ったまんま、許せぬまんま、ひがんだまんま、悔しいまんま…、負の感情のため込みは、禁! せっかくの努力の数々が、吉へと返りにくくなります。

最後に一つ言わせてください。

たかが「心穏やかに」――、しかしここが大切なのです。
神に「ココロ」預ける価値が、ここにあります。