豆まき行事で「鬼は外!」

講堂で、「心の基」を担当している、何ともリアルな夢を見ました。これがまた、ほれぼれするほど良い話をしているワタクシ。と、少しだけ自慢してみました。

人は、なぜ夢を見るのでしょう? 寝ている間もココロが動き続ける不思議さ。かく言うワタシも、夢の中の原稿なのに、「忘れる前に書いておかなきゃ」と、冷静沈着。別のココロのワタクシが、寝ているワタシをたたき起こした、ある真夜中の出来事でした。内輪話になりますが、コラムの締め切りを追い立てる人がいまして。これが夢と表れた。
第6回「心の基」は、真夜中のメモ書きから抜粋します。

 

供丸斎先生の足跡を、なぜ神が恩人と表されるのか、共に振り返ってみましょう。誰も知り得なかった、神の学問の数々。例えば「十教訓」「神、仏、人の道」「家族とは何か?」
ある時は泥棒、ある時はニワトリ、化粧の話もありました。飽きないように、教えに興味が湧くようにと、面白おかしい事例をもって。このコラムの源流も、ここにあります。

最後のご出場となったのが、昭和59年「節分祭」。

日本古来伝わる文化を、教会行事に取り入れた、その一つが「節分祭」です。
「鬼の心」「悪魔の心」が我が家に戻ってこないよう、豆をもってはらった行事。なぜならココロは、自分のものでありながら、抑えられないときがあるから。

「今のあなたは鬼より怖い心をしている」。どれほど笑顔で繕おうとも、心を見破る鑑定官に、隠し事は通用しません。「怒り」「悲しみ」「落ち込み」「不安」…暴れるココロが鬼や悪魔の正体です。大事な未来を不幸に導く、それが使者には見えていたのです。

だからワタシの「悪魔」ゴコロが、せめて「鬼」に戻るよう…、「鬼」なら「人」に戻るよう…、それが豆まき「鬼は外!」。

 

神が見るのはココロのカタチ

悪魔のココロの大泥棒。盗みを働く理由は我が子、うまい物を食わせてやりたい親心。これが罪を犯した根だとするなら、何とも言えぬ思いがします。悪事を尽くした大泥棒が、子にとっては良き父だった。実は誰のココロにも、鬼と天使が同居している。これも、神の教えの基本。くるくる回り続けるココロも、右に左に揺れ動くココロも、中心軸に戻ってこられる。これが神の教えのある価値、意味なのです。

 

さて、私たちの人生には、いくつも分かれ道が訪れます。仕事がつらいその時に、「転職するのか?」「我慢し、このまま残るのか?」。それをかつての私どもは、「どちらに行けば、この苦しみから逃れられるか?」左右を教えていただきたくて、“供丸斎先生詣で”をしました。

人は、誰もがカタチの選択、気になるものでありますが…、神が見ている左右はココロ。先に申したくるくる回り続けるもののことです。
今の自分のココロのカタチが、ゆがんでいるのか、丸いのか、とがっているのか、否かということ。カタチのままに、あしたの幸と不幸が分かれる。そして心の神様は、いつもここを見ているのです。

どちらも同じ転職なのに、けんか腰で飛び出た会社。涙ながらに握手し、別れた最後のひととき。
カタチは同じ転職なのに、使った心の向きは「真逆」。だから未来も、「真逆」の向きに定まるのです。

 

公式サイトのトップに掲げられたご神示、昭和63年節分祭です。

心笑顔で日々暮らせよ
 心笑顔は我が家から 仕合せの輪が広がると申す

 

心笑顔で日々暮らせよ
 心笑顔は我が家から
    仕合せの輪が広がると申す

つらいココロを流せるように、笑顔の我が家に戻せるようにと、使者が願った「鬼は外!」。
当日、壇上には直使の姿があり、豆まきをされたのは供丸光先生。節分祭とは、使者三方の心をつないだ、歴史そのものなのでしょう。
懐かしく、ありがたく、思い返した夢のひととき。ぜひに続きが見たいものです。