形とココロ、二つが融合する救い

直使には、それはそれは、多くの仕事がありました。このような中、時間が少しでも空くと、されていたことがあります。
誰かが困っている、悩み苦しんでいると耳にすると、放っておくことができなかったお方。
つぶれかけた店に、「もう一度、客足が戻るように…」、病で苦しんでいるならば、「かなうなら完治を。せめて痛みがないように…」。
空いた時間で、神へと願い続けていました。 
ご本人に成り代わり、通した結果と表れたものが、あり得ぬほどの奇跡の数々。
これらを記し、残したものが、「奇跡体験談集」という名の書籍。
それとともに、代わりに願ったこのことこそが、「希望の光御祈願書」の始まりです。

当時の教会、奇跡も守護も、こうして出続けていましたが、いつも直使の心に引っかかっていたもの。それは自分が、どこかでここにいなくなる日のこと。思えばさほど遠くはなかった、近い未来の教会と、直使を信じて付いてきた私たちのことでした。

だから今、直使がここに残したもの。それを見詰めてほしいのです。
残したものは、「代わって通すすべ」の代わりに、「守護と奇跡が消えない教会」。
その場を繕う瞬間軸の奇跡ではなく、根本解決かなえる救い。カタチの奇跡とココロの奇跡、二つが融合する救い!

 

平成7年、迎えたある日の神示です。

神示教会世に出る一歩 心の救いここから始まる
 職員一同 祝えや祝えよ 基礎を固めていざ出発
 今日この日を待ち望み 真実の光(ひかり)の幕開けと申す

神示教会世に出る一歩
    心の救いここから始まる
 職員一同 祝えや祝えよ
    基礎を固めていざ出発
 今日この日を待ち望み
  真実の光(ひかり)の幕開けと申す

登記上の教会歴史は、戦後の昭和27年、数えて約70年。しかし神が見詰める歴史は、何千年、何万年もの時を経て、ようやくこの世に表れた、人の心を救える教会。

祝えや祝え」と表(ひょう)した救いは、悩み、苦しみ、ココロの黒点、よどんだココロを元の白い姿へ戻せる、神の力を指すものです。

神が直使に下さったもの

この時期いつも思い出すのが、9月、10月、11月と続く式典、トリを務める代表からの挨拶です。
救われましたと号泣をする、それはスーツの似合う紳士。ぶるぶる声を震わせて、言葉すら出せなくなってしまった方も。
向かいにいられた、神が直々、人の姿を借りていたお方。それが直使。
澄んだまなざしが印象深く残っていますが、それもそのはず、その中身は神様だった。

さて、神が自ら使者を務める手段を取った、理由はどこにあったのでしょう?
答えは、揺るがぬ基礎を築き上げるには、誰かに託すわけにはゆかない。自ら旗を振るために、神の色そのものの人の姿が必要だった。それが直使。
直使といえども、神の色を邪魔するものが、人間心。人としての幸を求めるは禁、とことんまで求められたのが心の空(くう)。寂しい日々を潤すように、神がくれたプレゼントが、信者代表の挨拶でした。

自分の喜び捨てたところに、代わりに人が救われる。
神と交わしたこの約束こそ、直使が見ていた世界そのもの。11月15日、聖日記念日の意味なのです。