(宮城県YS/60代女性/主婦)
忘れもしない、13年前の3月11日。東日本大震災で、私は、父、弟夫婦、姪(めい)、伯母を一度に亡くしました。崖からドーンと突き落とされたような衝撃。受け入れられない。信じたくない。海を見るたび、この海が…、この波が…、「私の大切な家族を奪った」。やるせない気持ちが込み上げました。
「明魂祭」を受けた瞬間から…
心にぽっかり開いた穴。誰とも会いたくなくて、隠れるように過ごす毎日。「立ち直れるはずがない」。ボロボロの精神状態だった私を、神は大きく救い上げてくださったのです。
震災から1カ月ほどたった4月17日。この日から全てが変わっていきました。教主正使者供丸光先生が宮城偉光会館に出向いてくださり、執り行われた明魂祭(みょうこんさい)。「故人の魂は、安らいでいます」とのお言葉を聞いた瞬間、言い表せないほどの安心感でいっぱいになりました。「お父さんたちの分まで、しっかり生きていかなきゃ」。下を向いていた心が、不思議と前を向いていました。
初めて見えた周りの景色
開所したその日から、折に触れて心を寄せてきた宮城偉光会館。震災後も足を運び続けました。少しずつ、「今を共に生きる、家族との日々を大切にしたい」と思うようになっていく私…。
ある日、夫が、「ふさぎ込んでいたおまえを、どう支えたらいいか分からなかった」と言いました。そのひと言で悟ったのです。夫や子供たちが、どれほど案じてくれていたのか。ずっと暗いトンネルを、一人でトボトボと歩いていると思っていましたが、それは、とんだ思い違い。私のすぐそばには「家族」がいて、「家族の愛」に包まれながら生きていたことに、気付いたのです。
「心の道」に良き因を残す生き方
その頃から、勉強会で学ぶ「心の道」というフレーズが胸に響くようになりました。自分の心は、生き方は、子供や孫に見られて恥じないものか? 深く考え始めたのです。
思えば、私たち夫婦は、仲は悪くないものの、会話と言えば、事務的な内容ばかり。夫は船乗りで、離れ離れの生活を続ける中、心の距離まで広がっていたのではないか。神は、仕合せな人生を築く土台は「家庭」であり、中でも「夫婦」が大切…と教えてくださるのに、私の生き方は、根本がずれていた! まず、やるべきことは、夫と仲良くして、絆を深めること…と思い至りました。
一からやり直す気持ちで神の教えを学ぶ中、心に広がってきた、「夫の気持ちを理解して、寄り添いたい」という純粋な感情。そういう思いで接していくと、ちゃんと夫は応えてくれるのです。夫が仕事で落ち込んでいた時、肉じゃがを作ると、「おまえの手料理はおいしい」と、優しい言葉をポロリ。私が風邪をひいた時は、三度の食事作りに洗濯まで。これまでよりも、愛が深く染み入りました。家の居心地が良くなったからか、子供たちも泊まりに来ることが増えてきて、それもまた大きな喜びです。「夫婦の波長が合ってきた」。そうしたら、不思議と、「子供や孫が慕ってくれる」。仕合せが連鎖しています。
今、亡き家族に伝えたい思い
家族と笑い合う毎日の中でも、亡き家族を忘れたことは一日もありません。でも今、私の中に込み上げるのは、「二度と会えない…」という寂しさではなく、「きっと喜んでくれているだろうな」という安心感。父には、「みんなで仲良く、元気に暮らしていますよ」。弟夫婦には、「あなたの娘が、立派な助産師になりましたよ」。手を合わせては、うれしい報告をたくさんしています。
館に通い続けて気付いたこと
今から31年前の開所式の日。あの日の私は、神の館を近くに頂けたことに、ただただ感謝したことを思い出します。以来、喜びにつけ、悲しみ、苦しみにつけ、心のよりどころとして通い続けた日々。未曽有の大災害を乗り越えられた今だからこそ、かつて「この地を救いたい」と心から願ってくださった供丸姫先生と供丸斎先生の愛と、神魂が宿る神所のありがたさを、より深く、より強く感じるのです。
新生した宮城偉光会館にも、家族で足を運び、「心の道に良き因を残したい」「貸し主としての人生を歩み抜きたい」。今、私の心は、希望と感謝に満ちあふれています。