よくあるご質問

神示教会に多く寄せられる質問にお答えします。

仕事や結婚、転居などで環境が変わり、しばらく教会から遠ざかっていました。気が付けば、何年も教会費を払っていない状態で、いまさら足を向けるには敷居が高く感じます。自分の時間が少し取れるようになり、いつも声を掛けてくれた友人にも申し訳なく思っているのですが、どうすればよいでしょうか。

人生には、環境の変化が付き物です。思うように動けない時期もあるでしょう。そのような時も声を掛けてくれた友人がいて、今でも神示教会と縁がつながっている幸運を、ぜひ生かしてみてください。
この教会には、神の言葉、神示があります。神示は、この世の真理です。例えば、水は上から下へと流れ、人間が管理できるのはごく一部です。また、日の出、日の入りを繰り返しながら月日は過ぎ、時を元に戻すことはできません。全てが真理を基に動き、もちろん人間も、自然界の大きな仕組みの中で生かされています。
こうした仕組みのあることを知っていれば、季節に合わせて寒ければ厚着、暑ければ薄着…と、環境に順応しようと努めることでしょう。日の出を拝みたければ、迷わず東を向くはずです。人生も同様で、満ち足りた、悔いのない一生を送るためには、真理に沿った生き方が欠かせません。同時に、神の教えを学び、それを日常に生かすところに、必ず心の喜びや奇跡が味わえます。そこに、自然と感謝が湧いてきて、しばらく心が向かなかった教会費の支払いなども、負担に感じることはなくなってくるはずです。
人として生きる究極の目的は、仕合せ、幸福を実現し、開運を手にすることです。この教会には、そのための確かな指針があります。心が安らぐ温かい家庭、心身の調和が取れた健康、そして、やりがいのある仕事に恵まれて、希望を持って毎日を過ごし、「いい人生だった」と、何の悔いもなく終日を迎え、再び幸福な人生へと生まれてくることができる…。そうした人生が子孫につながっていく、真実の幸福を手にするために、神から真理を学んでいきましょう。
神示教会は、一宗教の教義、教則で縛られる環境ではありません。心の教えを通して、仕合せ、幸福を実現できる、いわば幸福学校です。各地の教会施設には、いつでも温かくお迎えする用意が整っています。どうぞ、気軽にお越しください。

何度か神の館で祈願し、勉強会にも出席してみましたが、自分の置かれた状況は、何も変わらない気がします。家でもお願いしているのに、今の状況が変わらないのは、私のやり方が悪いのでしょうか。

これでよいのかと迷ったり、救われないのかと不安を募らせたりする必要はありません。まずは、自分が置かれた状況を大きく受け止め、その中で、今の時期、自分が何を見詰め、どこから取り組めばよいかを確認することです。それがつかめれば、目指すべき姿が見えてきて、着実に前進できます。一つ一つ手応えを感じながら、取り組む意欲も増すことでしょう。そのために、折に触れて、教務相談を活用することをお勧めします。
もちろん、どのようなときも、当事者が熱意を持って臨む姿勢が大切です。例えば、医師からどれほど良い薬を処方されても、当人が正しく服用しなければ効能は得られません。空腹なときは、自分自身が食事を取ることです。と同様に、神に救いを求める本人の、真剣な気持ちが必要です。数ある宗教や易、占いのように考えて、中途半端な気持ちを向けていては、なかなか奇跡は味わえないでしょう。
目には見えない神の存在を、最初は信じきれないかもしれません。しかし、身の回りには、目には見えなくても、大切なものがたくさん存在しています。例えば、空気があるから、人は生きられます。「うれしい」「楽しい」と感じるのは、見えない心があるからです。また、料理には見栄えも大事ですが、評価を決めるのは味です。
神に心を向ける際も、手を合わせる形を重視するのではなく、神という存在に真摯に向き合うことが大切です。朝夕のご挨拶や、折に触れての祈願も、行い方や時間の長短が問題ではありません。真心を込めることです。そして、心から救いを求める気持ちで、各種授業や教会図書で教えを学んでみてください。そこに、必ず心に響く言葉や内容があり、生きるヒントが得られるでしょう。その積み重ねで、自然と生き方がより良く変わり、自分を取り巻く環境も変わっていきます。教えに生きる気持ちがますます引き出され、毎日が明るく、楽しく変わっていくはずです。

仕事が忙しく、時間に追われる毎日です。休日はゆっくり休みたいし、たまには趣味に没頭してストレスを解消したいとも思います。教会に学びに行こうと誘われますが、時間が取れません。もう少し暇ができてからではいけませんか。

仕事はもちろん、趣味や人とのお付き合いの楽しみも、心と体の健康があればこそ味わえるものではないでしょうか。これからも、ますます仕事や趣味に有意義な時間を使っていくために、教えに触れることをお勧めします。いつでも呼吸をするように、今の生活リズムの中に少しずつ教えを学ぶ時間を設けていくことです。まずは月に一度でも、授業で神の教えを学ぶ機会をつくることを心掛け、それが難しい多忙な時期は、授業のテキストとなっている図書を、少しずつ読み進めてみてください。生きるヒントが得られるはずです。
忙しい生活だからこそ、予想外の迷いや悩みが生じることもあるかもしれません。そのようなとき、的確な判断を下し、適切な行動が取れるようにと導いてくれるのが、神の教えです。食事を毎日取るように、毎日教えに触れて生活していれば、「これは、自分が頑張ること」「今は、見守っていればいい」などと、必ず解決への糸口が見えてきます。
神の教えは、知識や学問のように頭で覚えるものではありません。「なるほど…」「そうしてみよう」と、素直に心で触れることです。例えわずかな時間でも、教えに触れる機会を大切に積み重ねていくことで、どんなに忙しくても、身も、心も守られ、楽しい一生を送れるのです。そこに、趣味の時間も生きてきます。

時々一緒に参拝している友人が、悩みがあるというので、神示教会で相談することを勧めました。その後、「思っていた答えが返ってこなかった」と、少し不満げな様子なのですが、このようなとき、どんな言葉を掛ければよいのでしょうか。

まずは相手に温かい関心を持ち、話に耳を傾けましょう。私的な内容に入り込み過ぎないように配慮しながら、相手の気持ちを受け止め、その思いに共感することです。ただし、人の心は、不満な思いを話せば話すほど、その不満が増強していく傾向があるので、不平不満や愚痴など、マイナスの内容に終始しないように注意が必要です。ますます神魂に心を寄せ、学ぶ意欲が増すように、共に足を運んでください。また、回を重ねてつかめることも多いため、相談の場も気軽に活用していただくことです。
救われるとは、思いどおりに事が進むことではありません。問題に直面すると、不安や焦り、迷いなど、さまざまな感情に揺さぶられ、冷静な思考や的確な判断が難しくなりがちです。「これは駄目」「あれはできない」と思い込み、行き詰まってしまうかもしれません。そこで必要なのが、発想の転換です。
今ある迷いや悩みを解消するために、自分にとって必要な何かに気付くことが、解決への第一歩です。救われていくためには、ほんの少し距離を取って、広く現実を見詰め、必要な何かに気付かなければいけないのです。職員との応対は、そうした気付きを引き出す、大切なひとときです。ただ自分の思いに共感し、期待どおりのことを言ってもらうだけでは、悩みは解決していきません。自分の思いに反する指導であっても、まずは冷静に受け止め、考えてみることです。そこには、必ず救いにつながるヒントがあるはずです。

我が子が社会人になってからは、「今度は、早く良縁を…」と願い続けています。なかなか伴侶に恵まれませんが、親としてどうすればよいのでしょうか。

子供が成人し、社会人になっても、何かと心配するのが親心かもしれません。結婚を人生の重大事と捉え、我が子の良縁を願う人も多いのではないでしょうか。もちろん、縁組みが成立する以上に重要なのは、その後も末永く、円満な家庭生活を営んでいけることです。そのために、親として、必要な準備を続けていきましょう。
まずは、我が家に心の教えを入れて、どんどん実生活に生かし、ますます温かい家族関係を築いていくことです。その中で、家族それぞれの良さが引き出され、我が子も社会で立派に活躍できるようになっていきます。多くの人との出会いも広がり、縁を深めていく中で、自然と周りから声が掛かり、将来の伴侶との出会いも生まれてくるはずです。そうした出会いを生かし、良い縁を育んでいくためには、本人はもちろん、家族それぞれが、人から好かれ、頼られ、信頼されるような人柄であることが重要です。自分自身をよく知って、今から短所の改善に努め、持ち前の良さを発揮しながら、存在感を磨いていくことです。
我が子といっても、神から命を与えられた一人の人間です。歩む人生は一人一人違うことを深く理解し、人と比べたり、周りが焦ったりしないで、どのようなときも温かく支えていくことです。家族それぞれが神の教えを基に生活し、やがて我が子が真の縁を見いだし、心の安らぐ家庭を築いていけるように、大きな心で見守っていきましょう。

交際相手の一家が神示教会の信者で、「一緒に行ってみない?」と誘われています。交際は続けていきたいのですが、宗教に興味はないし、断れば気まずくなりそうで不安です。どうすればよいのでしょうか。

交際を続けたいと思うような魅力のある相手であれば、その人の持つ信仰に触れてみるのもよいかもしれません。世の中には、宗教と呼ばれるものが数えきれないほど存在しています。一概に「宗教なら何でも同じ…」と決めてしまわず、先入観なく見詰めることも大事ではないでしょうか。

信仰を持つ、持たないは、一人一人の生き方の問題です。人から強要されたり、何かの条件になったりするものではないはずです。また、何かを信じる気持ちは、人から言われて持てるものではありません。そう考えれば、最初から心を閉ざし、警戒してしまうのも、過剰な反応と言えるのではないでしょうか。まずは話に耳を傾けながら、自分が感じる不安や疑問などを正直に伝えてみてはいかがでしょう。

ちなみに、全国にある神示教会の施設は、休館日を除き、いつでも気軽にお訪ねいただけます。教えに触れるお気持ちのある方は、当日実施されている講座にも出席できます。何度でも足を運び、自分自身の目で確かめ、肌で感じてみるのが一番です。

幼い我が子の信者籍登録を知人から勧められ、少し驚きました。自分は独身の頃に自分から求めて信者となったため、「いずれ本人の気持ちを確かめて…」と思っていましたが、それでは遅いのでしょうか。

我が子に向ける親の思いは深く、赤子の頃から無償の愛で慈しみ、育てているはずです。幼児であっても、一人の人として気持ちを尊重することは大切です。ただし、すやすやと寝息を立てる赤子に対して、「何がほしい?」「どこへ行きたい?」と、いちいち尋ねることはできません。心身の健やかな成長を願い、「これが良い」「あれも良いのでは…」などと、おのずと保護者が選択し、決定しているはずです。時には試行錯誤を繰り返し、経験者の話や社会の情報にヒントを求め、周囲からの助言なども受けながら、愛する我が子のためにと考え、一本立ちする日まで導いていくことでしょう。

成長とともに幼稚園や学校などの環境を選び、必要な手続きを取っていくのも保護者としての役目です。神示教会への在籍も、他の事柄と同様ではないでしょうか。自分自身が神の教えを学び、それを生かす中で毎日が変わっていく素晴らしさを体感していれば、ためらうことなく「我が子も神の守りの中に…」と願うことでしょう。

親から言われ、時々教会には行きますが、勉強や部活が忙しく、アルバイトや友達との付き合いもあって、正直、少し負担です。この話になると親と言い合うことが増えてしまい、困っています。親の言うことを聞いた方がいいのでしょうか。

親子といっても別々の人間です。考えの合わない部分があるのは仕方ありません。世代が異なり、人生経験も違うため、物事の価値観も、時々の判断も違ってくるのは当然と言えるでしょう。単に思いをぶつけ合えば、「親が分かってくれない」「子供の気持ちをつかめない」というように、心の距離が離れてしまう事態にもなりかねません。

相手が親でも、子供でも、対人関係の一つです。身近なだけに、「親ならば分かってほしい」「子供だったら従って…」と、求め過ぎたり、甘え過ぎたりしていることはないでしょうか。また、親の言うことをするか、しないかと形のみを見詰め、最初から答えを限定しないことです。まずは相手の話を聞き、「大切だから言ってくれている」と受け止めた上で、「その日は試合だから…」などと、自分の気持ちや予定もしっかり伝えましょう。素直な気持ちで穏やかに語り合えば、会話の中から「こんな方法もあるよね」「なるほど…」そんな知恵が出てくることも少なくありません。

神示教会には、人間関係を豊かに結ぶために必要な、心の教えを学べる環境があります。「都合がついた日には授業で…」「ちょっと忙しいから図書で…」と、自分のペースで教えに触れていきましょう。心に残った教えが、きっと毎日の生活に役立つことでしょう。

社会人になった子供が、教会に出入りしなくて困っています。小学生の頃は一緒に参拝していましたが、高校、大学と徐々に足が遠のき、今は誘っても断られてしまいます。「教えは分かっているから」「自分の力を試してみたい」「やりたいことがある」などと聞くと、親として不安になります。教えを学ぶ大切さを、どう伝えればよいのでしょうか。

子供といっても、別の人格を持つ一人の人間です。親の保護の下で暮らす時代を過ぎれば、自分の考えや希望が前面に出てくるのは当然でしょう。そのような発言のあること自体が自立の兆しであり、望ましいことではないでしょうか。それを、不安や焦りを覚えるたびに「学びに行って…」と促してばかりいれば、「しつこいなあ」「またその話…」と、反発を招くこともあるでしょう。まずは、我が子の状況や心境をしっかりと受け止めてあげることです。仕事などが忙しく、出席の機会をつくれないというのなら、自宅で図書を読むことを勧めましょう。青年期にぴったりの図書、『友輝』を紹介し、「必ず役に立つから、少しずつ…」と、負担にならないように伝えることです。

たとえ、我が子を思うひと言であっても、「ご守護のおかげ…」「学ばなければ…」を連発しては、「盲信しているのでは…」「束縛しないで…」などと感じさせてしまうかもしれません。大切なことは、神の教えを人間関係を豊かにつなぐ知恵と捉え、自らが家庭生活の中に生かしていくことです。親自身が教えを日常に生かして、心豊かな毎日を送る姿を我が子に示し、人として生きる手本を見せていく中から、教えを学ぶ大切さが自然と伝わっていくはずです。

知人に神示教会の話をし、読書好きなので図書も貸してあげました。「なかなか良さそう…」と、気持ちが動いたようですが、周りからいろいろな評判を聞いたらしく、まだ迷っている様子です。顔を合わせるたびにいろいろ聞かれますが、どのように勧めればよいでしょうか。

神示教会で教えを学ぶ価値や意味は、心の変化やさまざまな体験から味わうことができます。中でも特筆に値することは、自分の持って生まれた良さを発揮し、多くの人の役に立つ、生きがいあふれる毎日が送れることです。そして、それぞれの人生を振り返ったときに、悔いを残さず、「素晴らしい人生が歩めた」と感じられることにあるでしょう。

この教会に出入りし、毎日が変わっていく手応えを感じている自分が、身近な人にもそれを味わってほしい、一歩踏み出す勇気を持ってもらえれば…と願うのは、ごく自然なことです。ただし、その人自身の気持ちが最も大切です。また、関心を持てば、さまざまな疑問も湧いてくるものです。「どのくらい通うことに…」「寄付などは…」などと素朴な質問を投げ掛けられたなら、誤解が残らないように、分かる範囲で誠実に答えていきましょう。

五感に頼って生きる人間にとって、目には見えない神を信じることは難しいかもしれません。それは、誰もが同じはずです。そうした不安が先に立っているようなら、その気持ちに共感しながら、「最初は自分もそうだったけれど…」などと、気持ちの変化や体験を語ってもよいでしょう。相手が本当に迷っているようなら、「幸福になる生き方を学ぶ学校のような所だから、気軽に訪ねてみてはどうですか」「すぐに会員にならなくても、教えを学んでみることもできますよ」などと、本人がこの環境に触れられるように、無理なく勧めてあげることです。

友人から何度か神示教会の話を聞いています。興味はあるのですが、その人の日頃の態度を見ていると、何となく踏み切れずにいます。それほど素晴らしい教えを学んでいるのに、どうしてあのような言動になるのかと思ってしまいます。友人と一緒ではなく、一人で行ってみてもよいのでしょうか。

学校であれば教師や学生の姿を、会社ならば社長や従業員の様子を見て、その善しあしを判断するのは仕方がないのかもしれません。人は、そこに出入りする人々を見て、どのような所か評価するものです。そう考えると、一人一人の存在がとても大切です。

しかし、教会に所属している人々が、神示教会そのものというわけではありません。例えば、同じ学校に通っても、学力の伸びは違うはずです。神示教会に籍を置く人の歩みも同様で、学びの頻度や理解の深さ、気付ける度合いや日常への応用力など、個人差があります。環境面の違いも影響するでしょう。また、「短気はやめよう」「人には親切にしなければ…」「責任ある行動を…」などと、自分で気付いてはいても、変わるまでに少し時間がかかる場合もあります。ですから、人の姿に影響されず、自ら積極的に教えに触れてみることです。友人と一緒でも、もちろん一人でも構いません。


病気が良くなるし、願いもかなうと聞きましたが、本当でしょうか。

信仰心があるからといって、不老長寿になれるわけではありません。とはいえ、正しい信仰を持つ人は、環境の変化に気持ちが揺さぶられず、明るく、強い心で日々を過ごせるため、心身の健康が保てます。つまり、病気になりにくかったり、体調を崩しても回復が早かったり、周りから見ても不思議に感じる状況が多いかもしれません。また、正しい信仰を生きる軸とすることで、多くの人と支え合える良好な人柄と、物事の大局を見て判断する力が得られることでしょう。

試験に受かりたければ、実力に合わせて挑戦し、万一病気になったなら、しっかりと療養することです。周りが動いても、自分は静観した方が良い場合もあります。ところが、人の心は弱く、環境に染まりやすいため、迷いや悩みが尽きず、自分らしく生き抜くことが難しいのです。

神示教会は、人として得られる仕合せ、幸福を手にできる所です。神から生きる基本を学び、自分自身の生き方の改善に取り組むことで、性格の欠点や、気力、体力の弱さがあっても、必ず前進していけます。十分に手入れを受けた草木が大輪の花を咲かせるように、人間も神の教えに沿って生きる日々の積み重ねによって、一人一人が持って生まれた良さ、潜在能力を惜しみなく発揮し、満ち足りた日々を積み重ね、悔いのない一生を送ることがかなうのです。

友人に教会の話をしたところ、「そんなに力のある神様なら、もっとテレビで宣伝すればいいのに…」と言われました。「なるほど、一理あるな…」と思ったのですが、どうして宣伝しないのですか。

肉体を持つ人間は、五感に頼って生活しています。そのため、「このテレビは、画質も、音質も素晴らしい」「少し甘めの味付けだ」「大好きな花の香りが…」「座り心地が抜群の椅子…」などと、五感を通してつかめることは、比較的認識しやすいでしょう。半面、空気や人の心のように、視覚、聴覚などで捉えられないものを理解することは難しく、実感を持ってつかむまでには、時間がかかることもあるはずです。

神という存在も、姿形がないため、人間にはなかなか認識できません。「神を信じる」と言う人がいる一方で、目には見えない存在だから、「半信半疑」「とても信じられない」と、否定に近い感情を抱く人もいるのが現実です。たとえ、身近なテレビで見聞きしても、神との心の距離を遠く感じてしまうかもしれません。

ところが、そのような人であっても、神示教会で教えを学び、それを日常に生かすことで、神の存在が実感できるようになっていきます。日々のあらゆる出来事を通して、守られている不思議さを体感し、ますますその存在に興味を持ち、神の言葉に共感が湧いてくることでしょう。全国各地の教会施設では、求める誰もが教えに触れられるように、広く門戸を開いています。参拝したり、授業に参加したり、自ら出入りするうちに、その人なりに必ず手応えを感じることができます。マスコミの宣伝で情報を得ても、そこに実感を伴うためには、やはり体験が必要なのではないでしょうか。神示教会では、そうした共感や感動をどなたにも味わってほしいと考えています。


何度か勉強会に出席してみました。すると、いろいろな授業の中で、「運命の力」という言葉が心に残りました。自分がどのような力を持っているのか知りたいのですが、どうやって見つければよいのですか。

運命の力とは、一人一人が誕生した時に神から授かっている力です。つまり、誰もが、生涯を通して生きがいにあふれ、喜び多く、楽しい人生を送れるように、生き抜く力を与えられています。ですから、自分の潜在能力を十二分に発揮できれば、自然と周りから褒められ、喜ばれることが増え、社会の役にも立ち、自分自身も満足な人生を手にすることができます。

一方、自分の運命の力を発揮したいと願っても、必ずしもそのような人生を送れるとは限りません。例えば、何事にも尻込みしてしまったり、自分の考えに固執し過ぎたり、困難に打ち勝つ強さが持てなかったり…。持ち前の良さを引き出し、磨きをかけていくためには、健康な精神が必要であり、その人自身の生き方が肝心なのです。

明るく強い心で暮らし、自分の仕合せにつながる感じ方、考え方を修得するためには、神示に触れていくことです。人間とは…、親とは…、仕事とは…、努力とは…、生きがいとは…というように、さまざまな真理を学び、日々の生活に生かしていくことで、自然と運命の力が導く生き方ができるようになっていきます。人生の中で遭遇するさまざまな出来事にも、迷ったり、悩んだりすることが少なくなってくるでしょう。時に困難に直面しても、そこから大切なことに気付けて、自分自身の糧と返ります。その結果、悔いのない、充実した人生が歩み抜けるのです。

一人一人の運命の力を測る単位はありません。しかし、神の教えを心の支えに生きるほど、日々守られているという感覚が実体験を通して強く持てるようになります。ますます今の自分の器に重なる生き方ができるようになって、能力以上の無理をしたり、努力が無駄になったりすることが少なくなっていくはずです。

「神は信じる人のみ救う」と聞いたことがありますが、本当ですか。自分は、教えをしっかり守る自信がありませんし、何かの枠にとらわれず、自由に生きたいと思ってしまいます。それでは、守ってもらえないのでしょうか。

人間は、感情動物ですから、日々いろいろな気持ちになるものです。いつでも同じ気持ちでいることはできません。また、「考える葦」と言われるように、あれこれ思いを巡らすのは自然なことです。自分で自由に思考し、決断したかと思えば、後悔するような心の動きもあるでしょう。完璧な人はいないため、時には考え違いがあったり、自我を押し通したりすることがあっても仕方がありません。それは、それでよいのです。

大切なのは、人間がそうした不完全な存在であると自覚することです。そして、自分自身が、他の生物と同じように、大自然に抱かれる一つの命であることを忘れず、連綿とつながる血の流れの中に誕生できたことに感謝し、家族や肉親の愛に育まれ、友人、知人など多くの縁者に支えられている意識を持つことです。神は、神、仏、人に感謝するとともに、自分と同じように、全てが価値ある存在と認識して、周りの人、物、さらに環境とも調和しながら、持てる力を重ね合っていく大切さをお教えくださっています。

神の教えを学び、自分の生き方に溶け込ませていけば、必ず神から与えられた運命に導かれ、悔いのない人生が歩み抜けます。神は、救いを求める人を必ず救ってくださいます。その救いとは、目先の願いがかなうことではありません。その人なりに生きがいを感じ、充実した日々を送り、「いろいろなことがあったけれど、これが自分の人生だ、悔いはない」と、生涯を通して納得できる、満足な人生を全うする姿です。つまり、開運がかなうのです。


子供のことは両親で考えればよいと分かっていますが、息子夫婦の様子を見ると、つい口を出したくなってしまいます。息子と嫁の意見が合わない上に、二人の考えが孫の希望とも食い違っているときなど、祖父母としてどのように助言すればよいのでしょうか。

日常生活の中で起きてくる身近な問題から将来の夢に至るまで、家族の意見交換や、相談が必要となる事柄は多いものです。普段は「親が付いているのだから…」「心配することはない」などと思っていても、かわいい孫のことになると、静観していられない場合もあるかもしれません。ましてや、一向に話がまとまらず、時に口論に近い状態となったときなど、その様子を見るのもつらいでしょう。何か助言できないかと考えるのは、無理もありません。そのようなときこそ、祖父母として温かく見守るためにも、心のゆとりを欠かないことです。

直面した問題ばかりに目を向け、自分がリードして結論を出せたとしても、本人が納得し、親が賛成しなかったならば、事は進みません。「強く言われたから同意したが…」「もっと別の選択肢があったのでは…」と、誰かに不満が残るようでは、その後の家庭生活に良い影響を与えるはずはないのです。孫を愛する祖父母としても、それでは不本意なことでしょう。

親の保護の中で育まれている子供たちにとって、親子のつながりは、全ての土台となるものです。ですから、どのような問題も、目先の結論だけを求めるより、一つ一つ話し合いながら、親子の絆をますます育んでいけるように心を尽くすことが得策です。日々の出来事の全てが、親子、家族が理解を深め、心のつながりを強める好機です。そのためにも、「なぜそう思うのかを聞かせて…」「なるほど、そんな気持ちでいるのか」「それなら応援するよ」「もう少し考えてみては…」というように、親も、子も、互いの気持ちを尊重しながら話し合いを重ねていくことが不可欠です。そこに、必ず解決への糸口が見つかり、現状で考え得る最良の結論を導き出せることでしょう。それができるように、祖父母として大きな心で家族を見守り、それぞれの求めに応じてしっかりと支えていきましょう。

休暇などに友人たちと旅行をするのが楽しみになっています。自分は神示教会の信者なので、観光地の神社、仏閣に立ち寄った時など、みんなと一緒に参拝してもよいものかと気になることがあります。神さまに失礼にはなりませんか。

修学旅行や研修旅行での見学、あるいは友人に誘われて初詣になどと、神社、仏閣に足を運ぶ機会は、思いの外あるかもしれません。そのようなときは、もちろんその地に祭られた神、仏にも敬意を払い、ふさわしい所作を心掛けながら、参拝や見学など、その場に見合った行動を取ることです。神示教会に信者と籍を置いていても、宗教的な制約を受けることはありません。「自分は信者だから…」と一緒に行動しないようでは、周りの人々との調和も図りづらいのではないでしょうか。各地の人々が大切にしてきた神社、仏閣などを訪れ、素晴らしい伝統や文化に触れる中で、心に響くものもあることでしょう。

一方、神示教会に参拝し、教えに触れ、さまざまな思いを祈願する目的は、単に見聞を広めたり、御利益を求めたりすることではありません。人として生を受けた誰もが、その幸運を自覚し、喜び多い価値ある人生を手にすることにあります。そのためには、神が表される神示に触れることが必要です。神の教えは、宗教の教義、教則のようなものではありません。誰もが求めるこの世の真理であり、人生を悔いなく生き抜く確かな指針です。神仏に頭を下げる姿は似ていても、その意味合いが違います。

成長に必要な滋養に恵まれ、手入れを受けた植物が立派に開花するように、人間も天賦の才を磨き上げ、それを生かしきれば、必ず社会の役に立ち、生きがいある日々を送れます。神から教えを学び、それを毎日に応用するうちに、おのずと魅力が引き出され、周りからも求められ、心安らぐ温かい家庭を築けることでしょう。そのような人柄の良い人が増えていくことで、周囲の環境も潤い、社会も明るくなっていくはずです。


我が家は家族の会話が多い方だと思いますが、神の教えや教会の話題になると、嫌な顔をされてしまいます。普段は楽しく話しているのに、時々言い合いになることもあって、後味が悪い思いをしています。いつか家族で一緒に教えを学べるようになりたいと思っているのですが、自分の話し方がいけないのでしょうか。

その日の出来事を語り合ったり、気掛かりな問題を相談したり、家の中では、幅広い内容が話題に上ることでしょう。たとえ家族であっても、気持ちや考えが全て重なるというわけではありません。話の成り行きで、議論になることがあっても当然です。いくら「家族で学びたいから…」という思いで話しても、「それは聞きたくない」と拒絶反応を引き出しては、かえって逆効果です。自分では気付かないうちに、つい夢中になって、家族の気持ちをつかめなくなっている場合もあるものです。自分自身を冷静に見詰め直し、まずは心のゆとりを持って、穏やかに話せるようにと心掛けることが必要でしょう。

家族の会話は、お互いの気持ちを思いやり、明るく温かい言葉や態度で思いを伝え、それを受け止め合う、心のキャッチボールが大切です。「何を話そうか」「どのように伝えようか」と、言葉や話題を選び、方法を考えるよりも、「みんなで楽しく会話しよう」「気持ちを分かり合い、思いを重ねて…」などと、一人一人の気持ちを大事にして、調和の取れた我が家にすることです。そのためには、自分自身が率先して教えを学び、家族を愛する心、大切に思う心をますます培っていきましょう。いつでも気持ちよく会話でき、温かい心の触れ合いが持てる関係であれば、いつか必ず、神の教えや教会の話も滑らかにできる日が来るはずです。自然と話が弾むようになるまで、焦ることなく会話を重ね、心のキャッチボールをしていきましょう。