“人生は有限で、いつかは終わる”それは事実でも、「亡くなったらどうなるの?」「子や孫のことが気掛かり…」などと不安を抱えながら生きるのではなく、最後まで先々への希望を持ち続けて歩みきりたいものです。そうして迎える人生の終焉(しゅうえん)には、家族に見守られて、「最高の一生だった」と満足して安らかに旅立つ。“何の未練も残さずにこの世を去る”ことが、子孫に良い因を残し、次に生まれてくる自分の人生も引き上げていくことになるからです。こうした姿を確実に実現するために、神と共に生きることを「明魂」誓願の儀で誓い、毎年その思いを新たにする儀式が、「福寿の集い」です。
ことしから、会場は神奈川県湯河原町の偉光郷へ。雄大な自然に囲まれた場所にあるこの施設には、故人の生きた証しを大切に残す神玉里(納骨施設)が併設。家族の心をつなぐとともに、先祖の思いを子孫へとつなぐ力が偉光郷にはあります。この地で「福寿の集い」を行う意味を、心で、体で味わえることでしょう。
悔いのない人生を目指す決意を新たに
7月1日から始まった「福寿の集い」には、全国各地から二世代、三世代で参列する姿も目立ちます。視界いっぱいに広がる海や山々を眺めながら参道を歩くと、心もゆったりと安らぎ、家族と一緒に訪れた喜びも湧き上がります。
一方、儀式会場に漂うのは、どこまでも清らかで厳かな空気。参列者は、一年に一度、神に自身の思いを届けるこの機会に居住まいを正し、深々と一礼をして臨みます。冒頭で伝導師から、ことしの「福寿の集い」に向けて表された神示をお伝え。「『教え』を学び 『真理』で家族に関わる思いはいかに」神からの問い掛けに重ね、「大切なのは、神の教えを生かして家族に触れること。『ありがとう』なども言葉にして伝えているか…。うわべではなく、心からそう思っているか…」との言葉に、一人一人がこれまでを振り返り、関わり方を見詰め直しました。
続いて、日頃の神のご守護への感謝、教えを学んで、心を高めていく決意を祈願。同席した家族は、本人の願いを受けて、支えていけるように心を重ねます。悔いのない人生、我が家と子孫の繁栄を願えばこそ、手を合わせる姿は真剣そのもの。水を打ったような静けさの中、目頭を押さえる姿や、時折すすり泣く声も聞こえ、それぞれが思いの丈を神に届けました。
同じ血の流れを受け継ぐ家族との縁を大切に、一緒に心を磨き合うこと。それが、悔いのない人生への一番の近道となるのです。
感謝を深めて、さらなる成長を
儀式を終えた参列者は、誰もがすがすがしい表情に。「福寿の集い」で味わった感謝や感動を、語り合う姿もありました。
「取り越し苦労をしたり、焦ったりしやすい自分…。それが、“教えに沿って生きれば大丈夫”と大きく構えられるのは、神に心を守られているからです。神玉里に納骨している父のことも浮かんで、家族でもっと仕合せになろうという気持ちも高まりました」
「体調を崩してめげていた私を、夫や息子夫婦が励ましてくれたおかげでかなった参列。神示を目にして、温かい家族がいる仕合せを感じました。もっと一日一日を大切に、神と生きていきます」
「家族で一泊したら、小さなことにこだわったり、気にし過ぎたりする心がほぐれたみたいです。日頃、会話の多い我が家ですが、もっと柔らかく優しい心で関われるよう、自分を正していこうという気持ちになりました」
「いろいろなことで、自分を支えてくれる家族への感謝が、年々増しています。偉光郷にみんなで来て、それがより強くなったのと、命をつないできてくれた先祖を感じられて…。九州からは遠いなと思いましたが、ここに来たからこそ深く味わえたのだと感謝です」
両親のために、一家で参加した人たちも。「家族との挨拶は、私のエネルギーの源。『おはよう』『ただいま』のひと言に、どれだけ意欲や安心感をもらっているか…。そんな家庭になれたのは、神のおかげです」父親の言葉を聞いた子供たちも、「偉光郷は初めて来たけれど、不思議と落ち着きます」「儀式の時、両親に悔いのない人生を歩んでほしいという思いがあふれてきて涙が…。大切な親に安心してもらえるように、自分も教えをしっかり実践していきます」と笑顔で語りました。
他にも、「“人に尽くす心”で、定年後も、ボランティアや町内会など、精力的に動き回っている父を尊敬します。その生き方を手本に、親のためにできることをしていきます」と、支え方を見詰め直した人もいました。
神と、家族と、年々心の絆を固く結ぶほどに、毎日がどんどん明るく、生きる喜びにあふれていきます。その積み重ねによってかなうのが、悔いのない人生であり、「開運」です。必ず手にして、どこまでも深い神の愛に応えましょう。
「福寿の集い」は予約制(先着順)です。さまざまなご事情で、偉光郷まで足を運べない方にもご参列いただけるように、8月に神総本部、偉光会館においても、日時を定めて実施します。