第9回 「清礼のご報告」
第9回 「清礼のご報告」

袋に入った御神体の正体は…

1月23日のことです。粛々と行われた「清礼」という神事儀式。感染症対策で、ほぼ無人で行わざるを得なかったため、その雰囲気をコラムでお伝えいたします。

「神に礼を尽くして、清める」と書き「清礼」。清められる対象は、昨年一年、私たちと共にあった旧御神体。
お札、お守り、破魔矢に正月飾りなど、勝手にポイと処分したなら、何だかバチが当たりそう――。「清礼の儀」は、世にある近しい行事を挙げるとするならば、神社に頼んで燃やしてもらう、どんど焼きのイメージかもしれません。

さらに「御神体」。
神は神でも、大山命の役割は、人の心を守ること。そしてその正体は、ココロがつぶされそうな時、昼夜問わずに支えてくれる、不思議な力を持った神様。御神体はその分魂。一体、また一体と、袋分けしていただけた、神の魂そのものなのです。

大切なのは、自分の所有としたくとも、自分のものとはできない神様。よって新たなものを手にしたならば、古いものは神へと返す。この神との約束こそが、「清礼」の原点。だから「買う」のではなく「お預かり」、「処分」ではなく「ご返納」。当教会では、こう表しているのです。

 

元の白い姿に戻す唯一の手段

さて「清礼」。
御神体の中に入っているものは、神の魂だけでなく、ワタクシたちが訴え続けた、つらい、苦しい、止まらぬ涙に、不平と不満。祈願するたび袋にたまった、汚れとよどみ。これらの処分の方法を考えなくてはなりません。
なぜならせっかく、新たな年がやって来たのに、悔やんだココロが消せないジブン、憎んだココロのまんまのワタシ。古いココロをいつまでも引きずるままであったなら、努力が吉へと返ってこない。幸(さち)が逃げてしまうから。
洗剤ではキレイにならない、消しゴムでも歯が立たない、やっかいな汚れ。これを洗濯するのが「清礼」。ことしも正使者の御手をもち、真っ白に清まりましたこと、ここにご報告いたします。

 

コラムの締めに思い出話を。
積もりゆく雪の中、車を運転しているワタクシ。寒いのに窓を開け、じっと雪をご覧になっている直使が、後部座席に乗っていました。
「曇り一つない、真っ白な雪。それがあっという間に汚れ、道路脇に押しやられます。一度汚れてしまった雪は、人の心と同じ――、二度と元には戻らないのです」「不平、不満、相手の悪口…、我が身、我が子、孫の代まで積み残る悪の因。元の白い心へと、唯一戻せる手段が、当教会の『希望の光(みち)』の価値なのです」。
「きょうもまた頑張りますね」と笑顔で仕事に戻られました。

 

コロナ禍にある人心は、全ての色が混じり混じった絵の具のよう――。
明と暗とに分かれゆく――。
神はこう表されました。
色にのまれると、モノの見方はすぐにゆがんでしまうもの。
イライラ、カリカリ、あいつが原因、無限に増強するものがココロの特性だからです。
怖い怖い、お互い気を付けましょう。